浅草寺とその周辺の歴史【CAD 派遣 求人 アルファコーポレーション】
浅草を代表する浅草寺

浅草寺(せんそうじ)は東京都内最古の寺で、もともとは天台宗でしたが、第二次世界大戦後に独立し、聖観音宗の総本山となりました。雷門や浅草観音で知られる浅草寺の歴史は推古36年(628年)にさかのぼります。

3月18日の早朝、漁師の兄弟が投網の中に1体の像を発見します。それを当地の豪族だった土師中知(はじのなかとも)に見せると、聖観世音菩薩であることがわかり、中知は出家し屋敷を寺に改めて供養しました。後に土師中知と、像を拾った檜前浜成・竹成(ひのくまのはまなり・たけなり)兄弟の3人を祀ったのが「三社権現社」、現在の浅草神社です。

本尊の聖観世音菩薩像は、高さ1.8寸の金色の像と伝えらていますが、後の大化元年(645年)に勝海上人が「秘仏」と定めたため、その実体は明らかになっていません。平安時代に入ると比叡山の慈覚大師が秘仏を模した「お前立」(秘仏の代わりに人々が拝むための像)を造り、現在公開されているのはこの「お前立」です。のちに勝海上人は浅草寺の開基、慈覚大師は中興開山と仰がれるようになりました。

天正18年(1590年)に江戸に入府した徳川家康は浅草寺を祈願所と定め、寺領500石を与えました。その後浅草寺はたびたび火災にあい焼失を繰り返しましたが、3代将軍の徳川家光の援助により、慶安元年(1648年)に五重塔を、慶安2年(1649年)には本堂を再建しました。貞享2年(1685年)には、現在の「仲見世」の前進である商店が表参道に設けられました。更に境内西奥川の「奥山」と呼ばれる区域では大道芸が行われるようになり、次第に庶民の娯楽の場となりました。

浅草寺の総門・雷門

雷門は浅草寺の総門で、正式名称は「風雷神門」です。創建の年代はよくわかっていませんが、平公雅が天5年(942年)に堂塔伽藍(寺院の建物の総称)を一新した際に、総門を駒形に建立したと伝えられています。

現在の場所に雷門が移築されたのは鎌倉時代になってからで、その時に風神・雷神の像も一緒に置かれるようになりました。風神・雷神は仏法を守護する善神で、風水害、火災の除難、天下泰平、五穀豊穣、浅草寺の平穏を祈願するために置かれました。

慶応元年(1865年)に田原町大火で雷門が炎上してからは、仮設の門が建てられることもありましたが、どれも一時的なものだったよう、現在の門は昭和35年(1960年)にパナソニック(当時は松下電器)の創始者、松下幸之助氏の寄贈により再建されたものです。

現在の提灯の底部には龍の彫刻が施されています。龍は大海に棲んでいて、雲を呼び、雨を降らせる力を持っているといわれています。火事の多かった浅草寺の周辺では、雨を降らせ火事から人々を守ってくれる龍を、龍神として崇めてきたことから、龍の彫刻が施されているそうです。

浅草寺の仲見世通り

仲見世の始まりは元禄元年(1688年)や享保20年(1735年)と言われています。浅草寺の仲見世は日本で一番古く、歴史のある商店街です。徳川将軍家の加護を受けるようになると、参拝客が増加し、もともと浅草寺境内の清掃の賦役であった近隣の人々に幕府から出店の許可が与えられると賑わいを見せるようになりました。

明治維新によって浅草寺が政府に没収されると、境内は東京府の管轄となり、仲見世の一切の特権が没収されてしまいます。明治18年(1885年)5月には東京府から仲見世全店の取り払いが命じられましたが、その年の12月には赤レンガ造りの洋風の新しい店舗が完成し、近代の仲見世が誕生しました。

大正18年の関東大震災によって仲見世は壊滅してしまいましたが、その2年後には現在の鉄筋コンクリート造りとなり、桃山風の仲見世商店街が誕生します。しかし昭和20年、戦火によって浅草寺の大部分が焼失、仲見世も外側を残して、内側は焼失しましたが、焼け残った外側を補強して、内装を整え、現在の仲見世の姿となりました。現在の仲見世には東側に54店舗、西側に35店舗の計89店舗があるそうです。

浅草寺だけじゃない浅草

明治4年に浅草寺境内は政府に公収され、明治6年に公園設立に関する太政官布告に基づいて、浅草寺は公園としての整備が始められました。浅草寺の境内は狭かったため、周辺の火除け地の田んぼも埋め立て、明治16年に工事は終了しました。浅草公園は6区画に分けられ、その埋め立てられた土地は6区と定められました。

6区は興行街として発展し、当初は芝居や大道芸等の見世物を中心として、時代とともに活動写真やオペラ、映画などのエンターテイメントの街となります。戦前には松竹劇場や常盤座、オペラ館などがあり、昭和20年には戦災に遭いますが、多くが鉄筋コンクリート造だったため、焼失を免れました。その年に14館が営業を再開すると、1か月に66万人もの観客が訪れたとも言われています。

1960年代に入るとテレビが普及したことにより、それまでの大衆娯楽のけん引役だった浅草六区の映画館が次々に閉館し、浅草は次第に人通りが減少するようになりました。しかし、昭和後期から平成にかけて浅草は少しずつ活気を取り戻します。現在では浅草サンバカーニバルや隅田川の花火大会、三社祭などで再び注目されるようになり、古き良き江戸の歴史や佇まいを残す地域として多くの外国人観光客が訪れ、国内有数の観光地となりました。

 

 

以上、CAD・派遣・求人の㈱アルファコーポレーションでした。

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